2018年10月

2018年9月25日                   宗教主事 浜崎 眞実神父

健康願望〜信仰より健康?〜        

 子どもの健やかな成長を願い、自分自身の健康を気づかって生活することは当然のことで、多くの人が関心をもっていることでしょう。しかしナザレのイエスの生き方から考えると、健康という価値が第一とは言えません。病気や障害との向き合い方について考えてみます。

 個人が健康を願うことと、国家やある団体が健康を優先的な価値として標榜することは区別するべきです。そうでないと「病院化した社会」をつくることになります。病気を治療すべきものと認識して人と関わるのは医療関係者であり、病院です。しかし、それだけが病気との向き合い方ではありません。病気の人とつながり、疾病そのものよりも周りの環境に働きかけることも大事です。また、医療モデルで人を見ることの問題性の指摘と社会モデルで見るように促されているのが現代において社会からの要請であり「時のしるし」でもあります。障害学などではすでにそのような考えを提唱しています。「障害者差別解消法」(2016年)でも、医療モデルから社会モデルへと障害を見る枠組みの変更が指摘されています。すなわち、障害は個人にあるのではなく、社会にあるとの認識です。教皇フランシスコが強調する「貧しい人の社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)」も、排除する意図はなくても、排除の機能が働いてしまうことへの自覚を促すものでしょう。「強制された健康」ということばもあります。戦時中、国民にとって健康は義務でした。病気や障害のある人は、国家にとって邪魔者であり非国民として排除されたのです。「役に立つかどうか」や「生産性があるか」という物差しとは別なところにイエスの福音のメッセージはあります。

 

【医療モデルと社会モデル】

 ともに障害学(disability studies)の概念です。医療モデルとは、障害は個人の能力・機能によって起こるものであり、障害者が味わう社会的不利はそのひと個人の問題だとする考え方であり、障害者には治療とリハビリが必要だという考え方です。つまりこの考え方では、社会的な不利は障害者自身が問題であって、社会が差別したという人権問題にならないのです。それに対して社会モデルでは、障害は社会の障壁によって作り出される、障害者が味わう社会的不利は社会の問題であり、障害者とは、社会の障壁によって能力を発揮する機会を奪われた人々と考えます。すなわち社会モデルは、個々の身体能力に着目するのではなく、社会の障壁に着目し、社会の環境に問題があると考えます。

 

2018年9月28日